2019年9月29日に開催された哲学カフェの記録

開催日時:令和元年9月29日(日)13:00~15:30
場所:サロンド冨山房Folio
テーマ:「家族は敵、味方?それとも...家族の絆について考える」
形式:グループディスカッション

今回は、「家族」についてディスカッションを行いました。このテーマは、とても大きなテーマではありますが、今回は「家族とは何か」「家族は敵か味方か」を柱とし、話し合いました。

●家族とは
まず家族の定義について考えました。各自が考えた定義は以下の通り。

・血縁関係
・名義(苗字)を共有している人
・「さようなら」を言わない人
・世帯主とその家族
・何かあった場合、何に代えても絶対に助ける対象
・いてよかったと思える存在

●家族は敵か味方か
次に、家族は敵か味方か、という問いについて考えてみました。

・味方
・対外的(家の外)に向かっていく場合は味方
・敵ではないが、絶対的に頼れる存在ではない
・敵ではないが、味方でもない。自分が抱えていかなければならない対象

参加者の中で、家族を「敵」という人はいませんでした。味方であることは誰もが同じようです。ただ、いかなる状況下においても絶対的に味方といえる存在ではないようです。外の敵に立ち向かうときは、家族が団結して戦うので、そのとき限定で味方であったり、自分が家族を「守る」存在であるひとは、家族は頼れる味方であるというより、守らなければならない存在であるようです。

また、「家族」の定義について、一般的にいう「血縁」「共同生活をする人の単位」と考える人と、「一緒にいたい人、守りたい人が家族である」という気持ちのつながりを重視して家族を考える人の2パターンに分かれました。しかし、単純にこの2つにあてはめられないパターンもあるようです。

・「血縁上の母以外に、自分のことを思ってくれている方を「もう一人の母」として慕っている」といった、「血縁を超えた、気持ちで強くつながっている家族」
・別の場所で暮らす、殆ど会うことのない親子において、その親を親と思っていない子供と、別れていても子は自分の家族であると思っている親

このように、血縁に囚われることなく、強い気持ちのつながりで家族となることもあれば、例え立場によって、例え血縁上の相手でも家族でない(とは認めない)という例もあるようです。

「家族」は一般的に、血縁上の関係や一緒に生活をしている単位という側面が重視されますが、実情はむしろ、強い絆や気持ちでつながる相手が家族であるといえるのかもしれません。
血縁であっても気持ちのつながりが薄い場合は家族足りえないし、逆に血縁でなくても、互いに思いあい、強い気持ちでつながっていれば家族といえるようです。

また、「家族」を考えるうえで、もう一つ重要な視点として「家族の形の移り変わり」があげられました。すなわち、昔と今では家族の形が変わってきているということです。

例)
・集団重視→個重視
・親は子供の上に立っている→親は子供と同じ目線
・家族は助け合うもの→家族のつながりが時に「めんどくさい」ものである

このように、家族の形は複数世代が1つ屋根の下で生活を共にし生活するような形から、核家族化し、個人の権利が重視される形へと変化しました。

それに伴い、親も逆らうことのできない上の存在から、子供と同じ目線で何でも相談できるような相手になりました。
家族の変化には景気、社会情勢等様々な要因があるが、家族の形が変化していくことが良いことか否かは賛否が分かれました。

しかし、その中でも皆で一致した考えが「相手を思いやるのが大切」ということです。

つまり、家族がどんな形であっても「他人の関係との1側面」であるということには変わりなく、他者とのかかわりである以上、相手への思いやりが大切であるということです。

そして、「理想の家族」の形として
・複数世代が同居し、子供を多面的に育てることのできる家族
・金銭的に貧しくても、相手を互いに思いやることのできる家族
という意見が上がりました。

いずれも、想定する家族の形態は異なりますが、「生活をともにする相手を思いやる、気遣う」という点では同じです。

「家族」とは血縁であることがいまや絶対的条件でなく、むしろ互いに思いやり、気持ちの上で強くつながっていることが同じくらい重要なようです。

これから、さらに家族のかたちが激しく変化し、「家族」という単位すら無くなっていってしまうこともあるかもしれません。

その変化の中で「どの家族の形」がいいか、悪いかということより、時代に合わせてその時にあったつながりや関係の形を構築していくことが大切ではないでしょうか。