2018年9月30日 に開催された哲学カフェ

日時:2018年9月30日(日)

場所:神保町カフェFOLIO

テーマ:「庶民に役立つ哲学 井上円了が志したもの」

 

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ゲストスピーカー:東洋大学理工学部教授・井上円了研究センター センター長 吉田善一先生 

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流れ:

・当哲学カフェの概要とルールを説明し、テーマとゲストスピーカーを紹介。

・ゲストスピーカーのお話をもとに、参加者の興味のあること・気になることなどから後半の話し合いのテーマを決定。

・各人興味のあるテーマのテーブルに移動し、話し合いを行う。

・グループで話し合った内容を発表

 

導入として、吉田先生に井上円了先生の生涯・考え等についてお話しいただいたのちグループごとにテーマを設定し話し合いました。話し合ったテーマは以下のとおりです。

・動機が善でも悪なる行為はあるか?

・社会のグローバル化と哲学の必要性

・学校教育における哲学の必要性

・哲学は身体に影響するものなのか?

 

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話し合いの内容(一部)

私のグループでは哲学と教育をテーマに話を行いました。

20代~70代の方など、幅広い年齢層の方がいらっしゃったので、各々の経験談を中心に話を広げていきました。そして、主な以下のような意見が出ました。

・哲学は教育の中で、しかも幼児期など早期から取り入れるのが良い。なぜなら、自分の意見だけでなく、ほかの意見も存在し、それを認める力を養うことで世界が広がるからだ。

・今の日本では哲学を学んだとしても、実社会で直接生かしていくのが難しい。現代の哲学者の主な仕事は論文を書くことで、それによって自分の理論を証明する。例えば、大学で哲学を専攻しても、社会人になってから生かす機会が少ない。しかし、哲学はものの見方を広げる役割を担い、それを現代の教育等の様々な分野に取り入れることは必要と思うので、哲学者がその役割を背負っていくべきだ。

・今の教育は、答えをいかに早く出すかが求められる。仕事で言えば、事務処理能力の向上とつながってくる部分だが、だんだん自分の力で考えて答えを出すことが求められる時代へと変化している。なので、教育に哲学を取り入れて、例えば、1つの方法として議論やディスカッションの機会を増やしていくことが重要ではないか。

・ただ、今の教育現場にそのまま哲学を取り入れることは困難だと思う。なぜなら、議論を取り仕切る教師が哲学教育を受けていないからだ。哲学を取り入れ、ディスカッション等をする際重要なのは、いった意見が少数意見等であっても間違いではない、どんな発言も言っていいんだよ、間違いはないんだよという、発言するうえで参加者が安心できる環境を整えることだ。なので、教師にもいろいろな意見を認める力等が必要になってくるが、十分とは言えないのではないか。そこで、哲学を取り入れるときはまず指導者等の哲学教育から始めるべきだ。

・学校に通っていたころ(若い方)、先生の質問に対して間違いを指摘されたことがあった。その経験から、先生に質問された時は、先生の求める答えを考え、答えるようになった。いわば、「空気を読む」ようになった。だから、自分の意見が認められ、間違ったらどうしようという気持ちや、その人が求めている答えは何?ということを気にすることや考えることなく、自分の意見が自由に言える環境が大切だと思う。そこに哲学はあっているのではないか。

決まった答えがあり、それを以下に導くことができるかという力を養うことに主眼を置いたのが日本の教育でした。しかし、何もないところから自ら考え道を切り開く力を必要とする時代に入っています。そのため、早いうちからそのような力を養う訓練が必要であり、様々な考えを認め合うという一面をもつ哲学を教育に取り入れることは有効ではないか、と参加者の方々は、考えました。しかし、西洋の教育では哲学に力を入れていますが、だからといってただ哲学を取り入れるだけでは不十分です。まず、教育者に代表されるような、人を教える方に哲学教育を浸透させていくこと、大学等で学んだ哲学を実社会で生かしていく場を創っていくことがまず必要ではないか、と考えました。


 

・配付資料

当日の配付資料については、以下のURLをクリックしてダウンロードして下さい。

www.dropbox.com

2018年9月30日に哲学カフェを開催します

次回のカフェの詳細が決まりましたので、お知らせします。

次回のテーマは「庶民に役立つ哲学 井上円了が志したもの」。前回の「哲学は役に立つのか?」というテーマから、「井上円了は、どう捉えていたのか」「これから私たちが生きる上で、哲学がどのように役立つのか」ということを考えていきます。

ゲストスピーカーは、東洋大学の理工学部教授であり、井上円了センターのセンター長でもある、吉田善一先生です。当日配布される資料を添付しますので、ご一読下さいませ。

1.日時
平成30年9月30日(日曜日) 13時〜15時30分

2.場所
千代田区神田神保町1-3 冨山房ビルB1 
「サロンド冨山房Folio」 電話 03-3291-5153

3.参加費用
大人1,000円 /学生500円(ドリンク付き)

4.テーマ
「庶民に役立つ哲学 井上円了が志したもの」
       
5.事前予約
電話/03-3291-5153 電子メール/folio@fuzambo-intl.com

 

6. 配付資料

以下のURLをクリックしてダウンロードして下さい。

www.dropbox.com

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2018年7月15日 に開催された哲学カフェ

日時:7月15日 13:00~15:30
会場:神保町FOLIO
テーマ:「哲学は役に立つのか?」

形式:グループワーク
前半は、任意のグループで自分の哲学観について語る。それを踏まえた上で、自分にとっての哲学定義について「哲学とは○○である」という形式で各自紙に記入する。
後半は、その紙をもとにグループを編成しなおし、自分の哲学観の詳細を紹介しつつ、再度議論を行う。
最後に、グループごとに議論の中で出た意見等をまとめて代表者が発表する。

内容
1.「哲学とは○○である」
参加者が書き出した定義の一部は以下の通り。
 「哲学は自分そのもの」
 「哲学は思考」
 「哲学は判断基準」
 「哲学とは、考え抜いた先に最後に行きつく答え」

その後、「各人にとっての哲学とは何か」と「哲学は役に立つのか」の2軸で議論を行った。

2.「哲学とは何か」
「哲学とは何か」について、思考(考えること)・思考を踏まえての実践・自分自身の価値や有する判断基準と考える方が多かった。
 従来の哲学観は思想(考えること)に重点が置かれることが多いように思われるが、意外にも現在はそこにとどまることなく、思想(考えること)を発展させて実践までを含めて哲学であると考える人や、考えたこと=自分の価値・基準と考える、実践・行動といったように「具体性」や「自身」に結び付けて哲学をとらえる人が多いようだ。
 また、「哲学」を自身の持つ価値観ととらえると、哲学は不変のものとも考えられる。例えば、「私は○○のために生涯をささげる」といった価値観などがあげられるだろう。これは一生貫き通すべき、変わらない価値観のように見える。
 なかには、自身が追い込まれた時に、絶対だと思ってた自身の哲学が揺らいだという経験をもつ方も。この方の体験談をきっかけに、「哲学は、様々な体験などを通じて様々な材料を吸収していくことでブラッシュアップさせ続ける営みなので、変わり続けるものではないか」「窮地に立たされた時に、自分の本当の哲学が垣間見えるのでは」といった意見が出された。
「哲学に答えはない」との考えは有名だが、そのなかにも「哲学は考えることである」「哲学を自身の価値観とすると、その価値観は普遍のものである」といったイメージがある。しかし、それも絶対ではなく、哲学観は個人や時代によって変化するし、一般的なイメージですら絶対ではない。哲学は相対的かつ柔軟なものであり、いかようにも形を変化さえうる。その背景には、個人の思想や時代背景、その時代の価値観等が大きくかかわってくるのだろう。

3.「哲学は役に立つか?」
 この議論では、役に立つと答えた人が圧倒的に多かった。「哲学とは何か」の定義にもよるが、主に自身の判断基準になりうることが主な理由だった。
 しかし、中には「役に立たない」と考える人もいた。
 例えば、哲学を企業経営に当てはめると「経営理念」に当たる。企業の文化・価値基準とも言い換えられる。これらも大切であるが、企業の目的は利潤追求であり必要なのは戦略である。企業が窮地に陥った際、必要となるのは哲学(価値基準)・文化ではなく、戦略である。一般的な企業は、企業理念(事業を通して実現したいもの、その会社で大事にすべきもの等)を掲げて、それに合わせて戦略を練る。しかし、現実的に企業理念は直接に利益を生まない。利益が出てこそ、実現できるものである。つまり、現実は戦略を練って、その先に哲学(企業理念)が来るものである。故に、哲学は実際には役に立つものではないと考えられている。
 先にも述べたように、哲学を「思考に基づいた実践」「自身の価値」と考える方が多く、そのような方は具体的に何か選択を迫られた際や行動するときの物差しとして哲学を用いることで役立てると考える。逆に、哲学を目的に据えても、それ自体は何も生まないので役に立たないと考える方もいる。
 このように、意見が分かれるのも哲学が決まった答え、形を持たないあいまいな性質を有するからだと思われる。
 今回のカフェの議論を通し、哲学の奥深さを再認識した。哲学に決まった答えがないことは変わらない。
 各人のもつ個人の価値観・時代背景等によって、哲学の内容や利用の仕方、定義等が変わる。どのように考えてもよいし、用いてもいい。いわば「自由」なものである。哲学を役立てる手段の1つの提案として、議論の中で一部出たように、自身の価値観=哲学と考え、仕事・プライベート、人との出会い等日常の営みを通して、それを磨き続け又は改め続けていくと良いかもしれない。

2018年7月15日に哲学カフェを開催します!

次回のカフェの詳細が決まりましたので、お知らせします。

次回のテーマは、「哲学は役に立つのか?」。ゲストスピーカーは招かず、テーブルディスカッション中心となります。いつもよりたっぷりお話する時間がとれますので、「このテーマについて人の意見が聞きたい」「自分の考えを話してみたい」という方はぜひご参加くださいませ。 

1.日時
平成30年7月15日(日曜日) 13時~15時30分

2.場所
千代田区神田神保町1-3 冨山房ビルB1  
「サロンド冨山房Folio」 電話 03-3291-5153 

3.参加費用
大人1,000円 /学生500円(ドリンク付き)

4.テーマ
「哲学は役に立つのか?」
       
5.事前予約
電話/03-3291-5153 電子メール/folio@fuzambo-intl.com

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2018年3月18日 に開催された哲学カフェ

日時:3月18日 13:00~15:30
会場:神保町FOLIO
テーマ:「フェアってどういうこと? スポーツにおけるドーピング問題を巡って」
ゲストスピーカー:東洋大学 法学部教授 清水宏先生

▪️ゲストスピーカーの話
ドーピングとは、スポーツなどの競技における競技能力を不公正な方法で上げるために、薬物を投与したり、何らかの物理的方法を行使すること。
1. ドーピングの歴史
ドーピングの歴史は、古代ギリシャにおけるオリンピックやローマにおける体育競技からスター ト。当時は競技力向上のため、ドーピング行為が普通に行われていた。1800年代のヨーロッパで は競走馬に薬物を投与して能力を高めることが行われ、プロの自転車レースの選手が、興奮剤とし てカフェイン、コカイン、ストリキニーネなどを使用するようになった。
1904年のセント・ルイス・オリンピックでは、イギリスのトーマス・ヒックス選手が、レース 中に公然とストリキニーネなどの薬物を摂取し、マラソン競技で優勝。1908年のロンドン・オリ ンピックのマラソン競技で、イタリアのドランド・ピエリ選手が薬物の過剰摂取により、ゴール付 近で倒れたため、チーム・スタッフが体を支えてゴールした結果、失格となった。

1946年オリンピック憲章に、「薬物その他の人工的興奮剤を使うことは最も強く非難されねば ならず、いかなる形であろうとドーピングを許容する者は、アマチュア・アスリートの大会及びオ リンピック競技大会に参加させてはならない」とのドーピングに関する項目が定められた。

1960年のローマ・オリンピックの自転車競技で、デンマークのヌット・イェンセン選手が競技 後に倒れ、病院で死亡が確認された。国際オリンピック委員会(IOC)はこの事件を重視し、 同委員会内に医療委員会を発足させ、アンチ・ドーピングを強く推進することにした。1999年に、 世界アンチドーピング機構(WADA:World Anti-Doping Agency)が設立され、アンチ・ドー ピング活動の中心となっている。

日本は、1965年に日本体育協会科学委員会内にドーピング小委員会を設置し、1995年には日 本オリンピック委員会がアンチ・ドーピング委員会を設置し、さらに、1996年には、日本体育協 会と日本オリンピック委員会が共同で、アンチ・ドーピング体制に関する協議会を設置した。 2001年にはWADAの設立を受けて、財団法人(現公益財団法人)日本アンチ・ドーピング機構 (JADA)を設立。2011年に制定されたスポーツ基本法では、アンチドーピング活動の推進を国 の責務として定めている。

2. ドーピング・ルール違反と制裁
• ドーピング・ルール違反と効果
• 個人成績の自動的失効(WADA規程9条)
• ドーピング・ルール違反が発生した大会での成績の失効(WADA規程10.1条)
• 資格停止処分(WADA規程10.2条~10.7条)
• 金銭的措置(WADA規程10.10条)
• ドイツでは、ドーピング・ルール違反に対して、1年以上10年以下の自由刑(懲役・禁錮)を課す法律が制定された。
・ドーピング検査
(1)検査の種類
• 競技会検査...競技大会において実施され、通常は、協議終了直後に検査係員が、選手に 検査対象であることを通告し、実施する。
• 競技会外検査...予め国際競技連盟またはJADAが設定した検査対象者として登録され、 居場所情報を提供する義務のある競技者に対して、事前通告なく、検査係員が宿泊所ま たは練習場所に赴いて、検査対象者であることを通告して実施する。
(2)検査の手順
a. 通告:検査対象であることを通告する。
b. 受付:検査対象者は、通告後速やかにドーピング検査室に行かなければならない。
c. 採尿:検査対象者は、同性の検査員の立会いの下にトイレで採尿を行う。
d. 分注・封入:検査対象者が自分で採取した尿を二つのボトルに分けて入れ、これを封印する。
e. 薬物の申告等:検査対象者は、検査員の指示に従って7日以内に使用した薬物とサプリメントを申告するためなど、書類を作成する。
f. 署名:検査対象者は、公式記録の記載内容や手続に問題がなかったかを確認して署名
する。
g. 分析:採取された検体(尿)の分析を行い、ドーピング・ルール違反の認定を行う。
h. 聴聞:分析結果を受けて、医師、法律家、スポーツ団体役員で構成されるドーピング防止パネルにおいて、聴聞会が開かれ、制裁等の決定がなされる。
i. 不服申立て:聴聞会における決定に不服がある場合には、スポーツ仲裁裁判所または
日本スポーツ仲裁機構に不服申立てをすることができる。

▪️テーブルトーク
※参加者のひとり、Yさんによるたテーブルトークの感想です。

テーマの「公正:フェア」は難しいテーマでした。私も事前に広辞苑で調べて見ましたが、 「公平で邪曲のないこと」、「明白で正しいこと」とあり何ともとらえどころのない説明でした。 そこで、オックスフォード英英を見てみたところ「法律或いは規則に従って行動すること」とあ り具体的なものでした。

私と同じテーブルの参加者の一人は「ドーピングの話を聞きに来たわけではないのに」と言っ ていましたが、私も当初レジメを見たときには同じ感じを持ちました。しかし、講師の清水氏の 話を聞くうちに「公正/不公正」の仕分けをするにはここまでの体勢と手続きの積み重ねが必要 だと分かってきました。そういう意味で今回のドーピング問題は「公正/不公正」の仕分けの格 好のサンプルであったと思いました。

テーブルトーキングでは話が進むうちに人工知能の話が出ました。丁度先週人工知能について 『スーパーインテリジェンス』と言う本を読みました。著者はニック・ボストロムと言う40代半 ばのスエーデン人でオックスフォード大学の哲学科教授です。

そこで議論されている問題は幾つかありましたが、やはり難しい問題は、人工知能が人間の知 能を超えるレベルになり心を持つようになった時に、人工知能が人間に刃向かうことがないよう にきちっとした道徳規範を持たせるにはどうすべきかということです。「公正/不公正」の問題に しても「法律或いは規則に従って行動すること」というだけでソフトウエアを組み込んでも人工 知能は何も出来ないでしょう。ドーピング問題に匹敵する、或いはより細かく規定しなければな らないでしょう。
上記の本では、どのような道徳規範を具体的なソフトウエアの形にして、どのように人工知能 に組み込むかの議論が書かれていましたが、気になりましたのは、ここでの議論にカントの実践 理性批判での帰結である「定言命法」には全く触れられていないことです。逆に人間には道徳規 範を個別具体的に列挙する能力はないので、これを人工知能にやらせようとの案が書かれていま した。多分カントも個別具体的な規範を列挙するのを諦めて形式論としての定言命法に行き着い たのではないかと想像します。

テーブルトーキングでは参加者の一人が結局は天に任せて自然体で臨むのが一番ではないかと の発言があり、私は「自灯明、法燈明」とですねと言ったのですが、帰路の電車の中で、これは どうもピント外れで、漱石の言う「則天去私」の方がその人の気持ちに合っていたのではと思い ました。

2018年3月18日 哲学カフェを開催します

次回のカフェの詳細が決まりましたので、お知らせします。

次回のテーマは、「フェアってどういうこと? スポーツにおけるドーピング問題を巡って」。東洋大学の法学部教授である清水宏先生をゲストスピーカーにお迎えし、「フェア」について考えていきます。

 

1.日時
平成30年3月18日(日曜日) 13時~15時30分

2.場所
千代田区神田神保町1-3 冨山房ビルB1  
「サロンド冨山房Folio」 電話 03-3291-5153 

3.参加費用
大人1,000円 /学生500円(ドリンク付き)

4.テーマ
「フェアってどういうこと?」
 
5.ゲストスピーカー 
東洋大学・法学部教授
清水宏氏
       
6.事前予約
電話/03-3291-5153 電子メール/folio@fuzambo-intl.com

 

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2018年1月28日に開催された哲学カフェ

日時:1月28日 13:00~15:30

会場:神保町 FOLIO

テーマ:「信仰と宗教について考える ~人を幸せにするのは宗教、哲学、科学、それともお金?~」

ゲストスピーカー:東洋大学長 竹村牧男先生

ゲストスピーカーの話

 宗教や信仰の分類は様々な種類がある。自然の万物に神が宿るという人、神は必ず人の姿をしているという人、または特定の神を持たず、様々な世界観や考えを反映させて形成した各人の「生き方の軸」こそが神だという人もいる。信仰も正月の神社参拝やお盆などの文化的に継承されてきたもの、特定の文化・地域に特有なものなどがある。

 信仰の本来の姿とは、自己の欲望についてむやみやたらと成就を願うことではない。例えば、病に侵されたとき「たとえ自分の命は助からなくても、社会が豊かになりますように」と願うことである。つまり、自分の努力を尽くした上で、自己の利益でなく社会や国家の繁栄を願うような姿である。

 また、宗教について、西田幾多郎鈴木大拙を中心に「自己」の観点から、お話しいただいた。

 宗教とは自己について考えたときにはじめて意識される存在である。そして日本の宗教において重要なのは、自己のふるまい方(「良い行為は良い結果につながる」等)ではなく、自己そのものとは何か、どこにあるか(在りか)である。

「自己」というものは「自己」の中にはない。自己を発見するために必要なことは、自己の「探求」ではなく「否定」である。すべてを否定して最後に残ったものが本当の自己である。矛盾していることのように聞こえるが、結果的に、自己を否定することは自己を肯定することにつながる。そして、仏教ではそのために「信」や「覚り」がある。

テーブルトーク

 私の所属したグループは竹村先生のお話を受けて、以下の2点を中心に話した。

  • 神とはどのような存在か

 神は心の支えのような存在である。例えば、病気に侵されたとき本人はもちろん薬を飲んだり、医者にかかったりといった行動を起こす。それと同時に「どうか治りますように、治してください」と心の中で神に祈る。薬や医者といった具体的な行動を起こしても治る確率は100%ではない。不確定的要素について我々は不安を覚えたりするが、神への祈願はそのような要素に対して、私たちの支えとなりうる。

 また、参加者の中には特定の宗教を信仰している方々がいた。彼らは代々家がその宗教を信仰していたというだけでなく、自分の考えや思いなどと照らし合わせ、その宗教の教えが最も合うからという理由で信仰しているという。つまり、神(宗教)とは受け継がれて根付いているから信じるというだけでなく、「自ら」選ぶことができるものなのである。

 また、特定の神(宗教)を信仰していない人にとっては上記で述べたように「心の支え」であるといえる。加えて、自分の考えや思いを反映させ、自分だけの神を創ることもできる。

  • 「自己」はどこにあるか

 竹村先生のおっしゃったように、本当の「自己」は自己の中にはない。それは自己の外にあり、自分の努力だけでは見つけ出すこと・たどり着くことはできない。本人も最大限努力をしなければならないが、努力の及ばない範囲については他人や神に委ねることが必要である。例えば、アルコール依存症の人を治療する際、本当の「自己」の姿は「アルコールに依存しない」である。そこにたどり着くには多くの場合、本人の努力だけでは到達できない。周りの人の助力も得ながら、現在の「アルコールに依存している自分」を否定し、本当の「自己」(アルコールに依存しない自分)の姿を探し、目指していく。

 ほかにも、「竹村先生のお話とフロイトが似ているのではないか」等の意見が出た。

所感

 今回のテーマである「幸せ」のためには何が必要かは各人の価値観によって異なることが多い。

 ただ、そのうえで「自己」や「神」は幸せを探求するうえで重要であると思う。幸せの主体は「自己」であり、幸せを願ううえで多くの人は神を頼るからだ。そして、自己を見つけるために必要なことは「自己の否定」と「自分以外の存在(他人や神)にゆだねること」なのではないかと今回の議論で考えた。

 結論として、「お金があるから幸せ」など、ある1つの条件を満たすからといって幸せになれるわけではない。そして、物質的なものそのもの=幸せのすべてというわけではない。(幸せを形成する一要素であることを否定しない)幸せとは形がなく、また個人の価値観に左右される相対的なものである。「自分にとって幸せとは?」と考えるとき、「自分」ばかりに焦点を当て続けるのでなく、今ある自分がすべてなくなったとき最後に何が残るだろうと考えることが重要である。そして、自己の否定は個人の力だけではできないので他人や神の力を借りる必要がある。

 

▼当日配布されたドキュメントはこちらにあります。興味のある方はご覧ください。

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