2018年3月18日 に開催された哲学カフェ

日時:3月18日 13:00~15:30
会場:神保町FOLIO
テーマ:「フェアってどういうこと? スポーツにおけるドーピング問題を巡って」
ゲストスピーカー:東洋大学 法学部教授 清水宏先生

▪️ゲストスピーカーの話
ドーピングとは、スポーツなどの競技における競技能力を不公正な方法で上げるために、薬物を投与したり、何らかの物理的方法を行使すること。
1. ドーピングの歴史
ドーピングの歴史は、古代ギリシャにおけるオリンピックやローマにおける体育競技からスター ト。当時は競技力向上のため、ドーピング行為が普通に行われていた。1800年代のヨーロッパで は競走馬に薬物を投与して能力を高めることが行われ、プロの自転車レースの選手が、興奮剤とし てカフェイン、コカイン、ストリキニーネなどを使用するようになった。
1904年のセント・ルイス・オリンピックでは、イギリスのトーマス・ヒックス選手が、レース 中に公然とストリキニーネなどの薬物を摂取し、マラソン競技で優勝。1908年のロンドン・オリ ンピックのマラソン競技で、イタリアのドランド・ピエリ選手が薬物の過剰摂取により、ゴール付 近で倒れたため、チーム・スタッフが体を支えてゴールした結果、失格となった。

1946年オリンピック憲章に、「薬物その他の人工的興奮剤を使うことは最も強く非難されねば ならず、いかなる形であろうとドーピングを許容する者は、アマチュア・アスリートの大会及びオ リンピック競技大会に参加させてはならない」とのドーピングに関する項目が定められた。

1960年のローマ・オリンピックの自転車競技で、デンマークのヌット・イェンセン選手が競技 後に倒れ、病院で死亡が確認された。国際オリンピック委員会(IOC)はこの事件を重視し、 同委員会内に医療委員会を発足させ、アンチ・ドーピングを強く推進することにした。1999年に、 世界アンチドーピング機構(WADA:World Anti-Doping Agency)が設立され、アンチ・ドー ピング活動の中心となっている。

日本は、1965年に日本体育協会科学委員会内にドーピング小委員会を設置し、1995年には日 本オリンピック委員会がアンチ・ドーピング委員会を設置し、さらに、1996年には、日本体育協 会と日本オリンピック委員会が共同で、アンチ・ドーピング体制に関する協議会を設置した。 2001年にはWADAの設立を受けて、財団法人(現公益財団法人)日本アンチ・ドーピング機構 (JADA)を設立。2011年に制定されたスポーツ基本法では、アンチドーピング活動の推進を国 の責務として定めている。

2. ドーピング・ルール違反と制裁
• ドーピング・ルール違反と効果
• 個人成績の自動的失効(WADA規程9条)
• ドーピング・ルール違反が発生した大会での成績の失効(WADA規程10.1条)
• 資格停止処分(WADA規程10.2条~10.7条)
• 金銭的措置(WADA規程10.10条)
• ドイツでは、ドーピング・ルール違反に対して、1年以上10年以下の自由刑(懲役・禁錮)を課す法律が制定された。
・ドーピング検査
(1)検査の種類
• 競技会検査...競技大会において実施され、通常は、協議終了直後に検査係員が、選手に 検査対象であることを通告し、実施する。
• 競技会外検査...予め国際競技連盟またはJADAが設定した検査対象者として登録され、 居場所情報を提供する義務のある競技者に対して、事前通告なく、検査係員が宿泊所ま たは練習場所に赴いて、検査対象者であることを通告して実施する。
(2)検査の手順
a. 通告:検査対象であることを通告する。
b. 受付:検査対象者は、通告後速やかにドーピング検査室に行かなければならない。
c. 採尿:検査対象者は、同性の検査員の立会いの下にトイレで採尿を行う。
d. 分注・封入:検査対象者が自分で採取した尿を二つのボトルに分けて入れ、これを封印する。
e. 薬物の申告等:検査対象者は、検査員の指示に従って7日以内に使用した薬物とサプリメントを申告するためなど、書類を作成する。
f. 署名:検査対象者は、公式記録の記載内容や手続に問題がなかったかを確認して署名
する。
g. 分析:採取された検体(尿)の分析を行い、ドーピング・ルール違反の認定を行う。
h. 聴聞:分析結果を受けて、医師、法律家、スポーツ団体役員で構成されるドーピング防止パネルにおいて、聴聞会が開かれ、制裁等の決定がなされる。
i. 不服申立て:聴聞会における決定に不服がある場合には、スポーツ仲裁裁判所または
日本スポーツ仲裁機構に不服申立てをすることができる。

▪️テーブルトーク
※参加者のひとり、Yさんによるたテーブルトークの感想です。

テーマの「公正:フェア」は難しいテーマでした。私も事前に広辞苑で調べて見ましたが、 「公平で邪曲のないこと」、「明白で正しいこと」とあり何ともとらえどころのない説明でした。 そこで、オックスフォード英英を見てみたところ「法律或いは規則に従って行動すること」とあ り具体的なものでした。

私と同じテーブルの参加者の一人は「ドーピングの話を聞きに来たわけではないのに」と言っ ていましたが、私も当初レジメを見たときには同じ感じを持ちました。しかし、講師の清水氏の 話を聞くうちに「公正/不公正」の仕分けをするにはここまでの体勢と手続きの積み重ねが必要 だと分かってきました。そういう意味で今回のドーピング問題は「公正/不公正」の仕分けの格 好のサンプルであったと思いました。

テーブルトーキングでは話が進むうちに人工知能の話が出ました。丁度先週人工知能について 『スーパーインテリジェンス』と言う本を読みました。著者はニック・ボストロムと言う40代半 ばのスエーデン人でオックスフォード大学の哲学科教授です。

そこで議論されている問題は幾つかありましたが、やはり難しい問題は、人工知能が人間の知 能を超えるレベルになり心を持つようになった時に、人工知能が人間に刃向かうことがないよう にきちっとした道徳規範を持たせるにはどうすべきかということです。「公正/不公正」の問題に しても「法律或いは規則に従って行動すること」というだけでソフトウエアを組み込んでも人工 知能は何も出来ないでしょう。ドーピング問題に匹敵する、或いはより細かく規定しなければな らないでしょう。
上記の本では、どのような道徳規範を具体的なソフトウエアの形にして、どのように人工知能 に組み込むかの議論が書かれていましたが、気になりましたのは、ここでの議論にカントの実践 理性批判での帰結である「定言命法」には全く触れられていないことです。逆に人間には道徳規 範を個別具体的に列挙する能力はないので、これを人工知能にやらせようとの案が書かれていま した。多分カントも個別具体的な規範を列挙するのを諦めて形式論としての定言命法に行き着い たのではないかと想像します。

テーブルトーキングでは参加者の一人が結局は天に任せて自然体で臨むのが一番ではないかと の発言があり、私は「自灯明、法燈明」とですねと言ったのですが、帰路の電車の中で、これは どうもピント外れで、漱石の言う「則天去私」の方がその人の気持ちに合っていたのではと思い ました。

2018年3月18日 哲学カフェを開催します

次回のカフェの詳細が決まりましたので、お知らせします。

次回のテーマは、「フェアってどういうこと? スポーツにおけるドーピング問題を巡って」。東洋大学の法学部教授である清水宏先生をゲストスピーカーにお迎えし、「フェア」について考えていきます。

 

1.日時
平成30年3月18日(日曜日) 13時~15時30分

2.場所
千代田区神田神保町1-3 冨山房ビルB1  
「サロンド冨山房Folio」 電話 03-3291-5153 

3.参加費用
大人1,000円 /学生500円(ドリンク付き)

4.テーマ
「フェアってどういうこと?」
 
5.ゲストスピーカー 
東洋大学・法学部教授
清水宏氏
       
6.事前予約
電話/03-3291-5153 電子メール/folio@fuzambo-intl.com

 

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2018年1月28日に開催された哲学カフェ

日時:1月28日 13:00~15:30

会場:神保町 FOLIO

テーマ:「信仰と宗教について考える ~人を幸せにするのは宗教、哲学、科学、それともお金?~」

ゲストスピーカー:東洋大学長 竹村牧男先生

ゲストスピーカーの話

 宗教や信仰の分類は様々な種類がある。自然の万物に神が宿るという人、神は必ず人の姿をしているという人、または特定の神を持たず、様々な世界観や考えを反映させて形成した各人の「生き方の軸」こそが神だという人もいる。信仰も正月の神社参拝やお盆などの文化的に継承されてきたもの、特定の文化・地域に特有なものなどがある。

 信仰の本来の姿とは、自己の欲望についてむやみやたらと成就を願うことではない。例えば、病に侵されたとき「たとえ自分の命は助からなくても、社会が豊かになりますように」と願うことである。つまり、自分の努力を尽くした上で、自己の利益でなく社会や国家の繁栄を願うような姿である。

 また、宗教について、西田幾多郎鈴木大拙を中心に「自己」の観点から、お話しいただいた。

 宗教とは自己について考えたときにはじめて意識される存在である。そして日本の宗教において重要なのは、自己のふるまい方(「良い行為は良い結果につながる」等)ではなく、自己そのものとは何か、どこにあるか(在りか)である。

「自己」というものは「自己」の中にはない。自己を発見するために必要なことは、自己の「探求」ではなく「否定」である。すべてを否定して最後に残ったものが本当の自己である。矛盾していることのように聞こえるが、結果的に、自己を否定することは自己を肯定することにつながる。そして、仏教ではそのために「信」や「覚り」がある。

テーブルトーク

 私の所属したグループは竹村先生のお話を受けて、以下の2点を中心に話した。

  • 神とはどのような存在か

 神は心の支えのような存在である。例えば、病気に侵されたとき本人はもちろん薬を飲んだり、医者にかかったりといった行動を起こす。それと同時に「どうか治りますように、治してください」と心の中で神に祈る。薬や医者といった具体的な行動を起こしても治る確率は100%ではない。不確定的要素について我々は不安を覚えたりするが、神への祈願はそのような要素に対して、私たちの支えとなりうる。

 また、参加者の中には特定の宗教を信仰している方々がいた。彼らは代々家がその宗教を信仰していたというだけでなく、自分の考えや思いなどと照らし合わせ、その宗教の教えが最も合うからという理由で信仰しているという。つまり、神(宗教)とは受け継がれて根付いているから信じるというだけでなく、「自ら」選ぶことができるものなのである。

 また、特定の神(宗教)を信仰していない人にとっては上記で述べたように「心の支え」であるといえる。加えて、自分の考えや思いを反映させ、自分だけの神を創ることもできる。

  • 「自己」はどこにあるか

 竹村先生のおっしゃったように、本当の「自己」は自己の中にはない。それは自己の外にあり、自分の努力だけでは見つけ出すこと・たどり着くことはできない。本人も最大限努力をしなければならないが、努力の及ばない範囲については他人や神に委ねることが必要である。例えば、アルコール依存症の人を治療する際、本当の「自己」の姿は「アルコールに依存しない」である。そこにたどり着くには多くの場合、本人の努力だけでは到達できない。周りの人の助力も得ながら、現在の「アルコールに依存している自分」を否定し、本当の「自己」(アルコールに依存しない自分)の姿を探し、目指していく。

 ほかにも、「竹村先生のお話とフロイトが似ているのではないか」等の意見が出た。

所感

 今回のテーマである「幸せ」のためには何が必要かは各人の価値観によって異なることが多い。

 ただ、そのうえで「自己」や「神」は幸せを探求するうえで重要であると思う。幸せの主体は「自己」であり、幸せを願ううえで多くの人は神を頼るからだ。そして、自己を見つけるために必要なことは「自己の否定」と「自分以外の存在(他人や神)にゆだねること」なのではないかと今回の議論で考えた。

 結論として、「お金があるから幸せ」など、ある1つの条件を満たすからといって幸せになれるわけではない。そして、物質的なものそのもの=幸せのすべてというわけではない。(幸せを形成する一要素であることを否定しない)幸せとは形がなく、また個人の価値観に左右される相対的なものである。「自分にとって幸せとは?」と考えるとき、「自分」ばかりに焦点を当て続けるのでなく、今ある自分がすべてなくなったとき最後に何が残るだろうと考えることが重要である。そして、自己の否定は個人の力だけではできないので他人や神の力を借りる必要がある。

 

▼当日配布されたドキュメントはこちらにあります。興味のある方はご覧ください。

docs.google.com

 

 

2018年1月28日 哲学カフェを開催します

次回のカフェの詳細が決まりましたので、お知らせします。

次回のテーマは、「人を幸せにするのは、宗教、哲学、科学、それともお金? 信仰と宗教について考える」。東洋大学の学長であり、仏教学者でもある竹村牧男先生をゲストスピーカーにお迎えし、などについて考えていきます。

 

1.日時
平成30年1月28日(日曜日) 13時~15時30分

2.場所
千代田区神田神保町1-3 冨山房ビルB1  
「サロンド冨山房Folio」 電話 03-3291-5153 

3.参加費用
大人1,000円 /学生500円(ドリンク付き)

4.テーマ
  「宗教と信仰について考える」
 
5.ゲストスピーカー 
東洋大学学長・仏教学者
竹村牧男氏
       
6.事前予約
電話/03-3291-5153 電子メール/folio@fuzambo-intl.com

 

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2017年11月19日に開催された哲学カフェ

日時:11月19日 13:00~15:30

会場:神保町FOLIO

テーマ:「世のため人のためって誰のため ONE FOR ALL ALL FOR ONEについて考える」

ゲストスピーカー:神山敏夫氏

ゲストスピーカーの話

 中村天風の生涯と哲学の内容に触れながら、「人のために行動すること」「積極人生とは」など幅広いお話をしていただいた。

 天風は「心身統一法」を提唱している。健全な肉体は健全な精神から作られるという考えで、当時不治の病と言われていた結核をチベットでの修行を通じ、心のもち方を変えることにより治した。その経験から、自身の地位や財産をなげうって心身統一法の考えを広めることに努めた。

 神山さんは主に以下のようなことを主張された。

・健全な肉体は健全な精神から作られる

・心の持ち方が重要であり、それによって人生が明るくなる。例えば、交通事故にあったとき、「事故にあって不幸」と考えるより、「無傷でよかった」と思うことが重要だ。

・現実にあることに対し、できるかできないかは精神や考え方に左右される。

・人のために貢献するには、このような積極的思考が不可欠。

・積極的思考を行うためには、普段使われない意識(潜在意識)を積極的に使うことが重要。

グループトーク(テーブルA)

 貢献には積極的思考が必要とのことから、積極的思考とは何かについて主に話し合った。

①積極的思考とお節介の境界はどこか

 お節介とは、他人のために良かれと思い、その人のために何かをすること。積極的思考と同じ、または非常に似た言葉だ。しかし、現在はお節介を「うざい」と考え、受け入れられなくなっている人が多い。干渉されたくないと考えている。

 積極的思考は貢献の必要条件であるのに対し、他人に対してお節介をすることが貢献になるとは限らないという点で、異なってくるのではないか。

②貢献か、押し付けか

 相手に自分が正しいと思う考えを主張し、相手にもよくなってもらいたいと考える場面がある。自分から見ると「相手を豊かにしよう・よくなってもらいたい」と考えて行うことなので「貢献」になるが、同時に相手の考えを否定したり、意見の押し付けになることもある。

 その場合、重要なのは相手を捻じ伏せることではなく、納得性を持ってもらうこと。そのためには、論理的に話して説得しなければならない。つまり、貢献には確かに積極的思考が必要だが、自分が積極的になるだけでなく、それが相手に受け入れられなければならないのだ。

 貢献とは、自らをなげうって相手のために行動することであると捉えられる。しかし、それだけでは十分ではない。一方的なお節介が時に相手にとって受け入れられないように、自分が「貢献」と考えて行っていることが、相手に対して「貢献」であるとは限らない。貢献を行うときは自らの意志と同時に、相手に受け入れられることも必要である。

グループトーク(テーブルB)

①中村天風について

 中村天風のような人生を歩んだ人は稀有であり、また、望んでそのような経験をすることができるものでもない、中村天風は昭和の偉人、またはスーパーマンに近いのではないか?

②積極的意思を持って生きる=ポジティブ・シンキング?

 天風の「積極的意思を持って生きる」という話は「ポジティブ・シンキング」に近く、また「意思あるところに道が開ける」という言葉にも通じている。ある意味、それは普遍的な真理であり、積極的に生きなければ、人のために何かをすることもできないのではないか。

③世代の違い。昭和世代と平成世代の違いについて

 世代の違いについては、全員が大きな相違があることを認めていた。生まれ育った時代に刷り込まれた感覚(無意識)を払拭することは困難だ。

④孤独はいい。しかし孤立はダメ

 さらに、家族の問題について独居が増えているが、孤独はよいが孤立は避けなければならない。老後の問題として安楽死にも話が及んだ。

⑤家における祭祀の継承について

 継ぐべきものがあるかどうか、続けていく意味があるかどうかという意見があり、ディスカッションが始まりそうになったが、時間が足りず中断。

当日の配布資料

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2017年11月19日 哲学カフェ開催します!

次回のカフェの詳細が決まりましたので、お知らせします。

次回のテーマは、「世のため人のためって、誰のため?」。今回は公認会計士であり、公益法人コンサルタントでもある神山さんをゲストスピーカーにお迎えし、「公共哲学」や「中村天風哲学」についてお話を伺いながら、「家族とはなにか」「次世代に伝えたいものとは」などについて考えていきます。

1.日時
平成29年11月19日(日曜日) 13時〜15時30分

2.場所
千代田区神田神保町1-3 冨山房ビルB1  
「サロンド冨山房Folio」 電話 03-3291-5153 

3.参加費用
大人1,000円 /学生500円(ドリンク付き)

4.テーマ
  「世のため人のためって、誰のため?」
 
5.ゲストスピーカー 
公認会計士・税理士 公益法人コンサルタント
神山敏夫氏
       
6.事前予約
電話/03-3291-5153 電子メール/folio@fuzambo-intl.com

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2017年9月24日に開催された哲学カフェ

時間:13:00〜15:30

会場:冨山房FOLIO

テーマ:マシュマロテスト 正しい選択とは

ゲストスピーカー:哲学塾1期生 五十嵐美加氏

 

【前半】ゲストスピーカー五十嵐さんのトーク

  • 禁煙するつもりが、なぜかタバコをくわえている…
  • ダイエットする気満々だったのに、私なんでケーキを食べてるの?
  • 結婚してる身だけど、彼(彼女)の魅力には抗えない…
  • 夜中のラーメンって、なんでこんなに美味しいの?

これらの例を紹介し、「私たちはなぜ、自分で決めたことができないのでしょう」と問いかけた後、心理学者ウォルター・ミシェルの実験「マシュマロ・テスト」を紹介。

  • 子供の前にマシュマロを1つ置く。
  • 実験者は「このマシュマロは君のものだよ。もし私が戻ってくるまで待てたら、もう1つあげる。待てなかったら、ベルを鳴らして。そのときは、追加のマシュマロはなしだ」。
  • 子供とマシュマロを残し、実験者は部屋を出ていき、15分我慢できるかどうか試す。

 実験結果を見ると、7割の子供は最後まで我慢できず、途中で1つのマシュマロを選択。全体の約3割の子供が、最後まで待って2つのマシュマロを選択できた。

 最後まで待てた子供の様子を観察すると、マシュマロから気をそらしたり、目に入らないようにしたり、目の前のマシュマロはマシュマロではないと考えていたようだ。

 この実験結果からウォルターが引き出した結論は、人間の脳には本能的・欲求的に物事を選択する「ホットシステム」と、目的達成のために手段を考えて妨げを抑圧する「クールシステム」が備わっているということだった。

 ウォルターは、「真の選択をするためには、本能的な側面のホットシステムを調整することが大切」と考えていた。

 一方、シーナ・アイエンガーは、「幸せに関することは、ホットシステムを無視して選ぶべきではない」と考えた。例えば、恋人のどこが好きかをきちんと説明できるカップルと、相手のことを「なんとなくいいな」と思っているカップルを追跡調査。すると、後者のほうが相手への満足度が高いということがわかったという。

 私たちの生活の中でも、ダイエット中なのにケーキを食べている、テスト前に漫画を読んでしまうといったことがよくあり、あとで後悔してしまう結果になりがちだ。しかし、それを後悔するのではなく、ケーキや漫画を選択したときに得られる満足をもって納得すればいいのではないか。

 

【後半】テーブルディスカッション

問1 ホットシステムとクールシステムのどちらが良いか

問2 正しい選択とは何か

 

・テーブルA

 選択するときに大切なのは、ホットシステム・クールシステムどちらがよいかということではなく、自分への内面への問いを繰り返して、自分が何を求めているかをはっきりさせたうえで、それにあっているかということではないか。つまり、自分の中にある判断基準こそ重要だ。

 正しい選択とは、自分が納得できる選択であるということ。例えば、夜中にラーメンが無性に食べたくなることがある。一般的に見れば、夜中にラーメンを食べるという行為は健康的に好ましくないので、正しくない選択肢と捉えられることが多い。しかし、「夜中」に「ラーメン」を食べるという行為が一般的に正しくないとしても、本人の中に納得感があればそれは正しい選択といえる。例えば、その日に夜遅くまで飲まず食わずで仕事を頑張り、その結果、1日の終わりに大好きなラーメンを食べて、明日からまた頑張ろうという気持ちになれるのであれば、その人にとって夜中のラーメンは正しい選択といえる。

 しかし選択する瞬間、納得感を持てることは少ない。疑いや不安を感じている状況だと、自分のしている選択が「正しい」かどうか判断できない。その結果、「あの時の選択は間違っていた」と後悔することも多いだろう。しかし、その経験も全く無駄ということはない。納得感を持つ選択をするためには、失敗も含めて経験値を積むことが大切だからだ。

 ここでいう経験値とは選択の失敗と成功の経験を指す。例えば、私たちの周りにはラーメン屋がたくさんあるが、自分の納得する店を選ぶことはなかなか難しい。その中で、自分にとって正しいラーメン屋を選ぶために、多くのラーメン屋に入り、多くのメニューを食べてみて経験を重ねることが大切だ。「このラーメンはあまりおいしくない」「この店は値段が手ごろで入りやすい」「飽きない味で何回でも来たくなる」「店主が横柄だ」そのたびに、感じることや学ぶことが必ずある。失敗と成功の経験を重ねて、次に生かしていくことでより精度の高い選択ができるのだ。

・テーブルA参加者の所感

 選択というテーマは、現代社会で重要テーマの1つであると思う。私の属したテーブルの中の話でも出たが、近代の「画一的」であることが正しいといった風潮が、最近はだんだん崩れ始めていて、個人がどうあるべきかということを考えることが大切になってきた。そのため、1人1人が行う選択、選択を行えるということは現代的にとても重要である。

 私は、いわゆる「ゆとり世代」と言われる世代。学校教育の中で、「みなと同じことが大切」「しかし、個性を発揮せよ、自分の意見を持て」と、矛盾することを言われてきた。そのせいか、正しい選択とは「周りに迷惑をかけないようにしつつ、自分の意見等をもつこと」であると思っている。しかし、これから国際化や情報化が進む中で、個性がより強調されるようになり、「周りにとらわれずに自分の価値観に従ってする選択が真に正しい」となってくるかもしれない。つまり、その時代や環境、世代などによって「何が正しい選択か」ということは変わってくるということだ。だから、「正しい選択とは○○○○ということだ」という絶対的な答えはないのではないのではないか。時代や環境によって変わってくるが、その変化の中で正しい選択を模索したり、その基準となる自分の価値観を見つけるために「経験すること」「ホットシステム・クールシステムを意識すること」は有用かつ重要なのではないかと思った。

 

・テーブルB

問1 ホットシステムとクールシステムどちらがいいと思いますか?

 日常生活においては、どちらかと言えばホットシステムで動くことが多いが、選択後にクールシステムで、その理由付けなり辻褄合わせを行っているのではないかという意見あり。いずれにしても、ホットシステムもクールシステムもどちらも人間の生存に必要な機能として生まれたものであり、車の両輪のごとく問題に応じてそれぞれの機能が立ち上がるのではないか? どちらか一方を選択するのは困難。この問いについては短時間で議論終了。

問2 正しい選択とは何なのでしょうか?

 自分が満足できる選択、その時の最善の選択、後悔しない選択など、人それぞれ異なる意見がある中で、次の意見が注意を引いた。

「社会規範や法律など、基準に照らし客観的に正しいかどうかということを別にすれば、正しいかどうかの判断は主観の問題であり、人それぞれ。とするならば、正しいかどうかを問うことは意味がない」。

 また、正しい選択という問題は「幸せとは何か」という問題に収斂されていくのではないかという意見もあった。

 私的には「正しい選択」とは「正しい選択」をするための前提条件が重要であり、問題を正面から見ているか? 世間体・回りの空気に左右されている自分がいないかをチェックすることができて、初めて「正しい選択」をなし得るのではないかと考える。しかし、それでもなお、限られた経験や知識によるバイアスがかかっているとも思われるので、「正しい選択」とは何かについての結論には至ってはいない。

 

・テーブルC

 5人中3人が80代ということもあり、終活カフェのようになりましたが、基本的には東洋VS西洋という話になりました(仏籍をもつ方や自宅がお寺の方がいらっしゃいました)。

 仏教では「欲を抑える」というようなイメージがあるが、大乗仏教は「自分の欲に従ってどんな選択をしようとも、それは小さなことで、自分が救われる救われないは、仏の心にかかっている。どんな欲を持ってもそれを自分でモニターできていたら、それでいいのだ」というようなお話がありました。

 ともすれば、選択というのは文化や価値観のようなものに左右され、どこまでも「ひとそれぞれ」という相対主義になりがちですが、そもそも「自分が生かされている」と考えるのであれば、選択すること自体それほど大きな問題ではないというのは斬新な考えだったかと思います。